波多野香里展に行ってきました
波多野香里展を見に、Gallery b. Tokyoに行ってきました。
地下鉄銀座線の京橋駅の1番出口を出て、銀座方面に歩き、警察博物館の手前を左に曲がってすぐ右手に、ギャラリーb.東京の看板が見えてきました。
地下への階段を下りたところで、最初に裸婦の絵が出迎えてくれました。
縦長のキャンバスに緑色の肌をした裸婦が描かれています。裸婦は裸婦なのですが、さほど美しいという感じは受けません。ちょっと体が重そうな感じですが、かといって、病的というわけでもなさそうですから、おそらく健康体なのでしょう。乳房らしいものがおなかのあたりに見えています。顔を見ると、厚めの唇と、重たそうな瞼に、てかりがあって、ちょっとふてぶてしい感じ。背景が薄茶色に塗られているためか、寒そうには見えませんが、状況を推測するための手がかりらしいものは何も描かれていません。足元にはっきりした影らしいものも見あたらなくて、ただ白い電卓のようなものが落ちています。はてさて、これは、どうしたことでしょうか?
次は、身長を計っているらしい子供の絵。やはり、体の色が緑色です。ちょっとかかとを上げていて、少しでも高く見せようという魂胆でしょうか? 顔の表情は、ちょっとずるそうで、あまり子供らしさが感じられない。
さらに奥には、女子高校生三人の絵。モノトーンとまではいわないまでも、色数は極端に少ない。やはり顔や手は緑色。三人ともまったく同じ服装で、違うのは、髪型と肩からさげたバッグぐらい。はたして、楽しいのやら、そうでもないのやら。仲が良いのやら、そうでもないのやら。
裸婦や子供や、女子高生が描かれているにも関わらず、あまり、若々しさや、華やかさが感じられません。夢や希望が感じられないかわりに、絶望も感じない。かといって、まったくの無機質が支配しているというわけでもない。緑色の肌は、なんとなく植物を連想させます。はてさて、これはいったいどうしたことか? よくよく考えてみると、今の社会の現実の一面を切り取って、ありのままに映しだすと、このように見えるのかもしれません。生命力や活力が感じられない一方、少なくとも表面的には、死の影などどこにもみあたらない。そんな社会は、本来不自然ではないですかと、うすうす違和感を感じつつも、何かを積極的に変えようという知恵も気力もない。もともと、アートには、美しいものを美しく描けばよいというだけのものではなく、時代を映しだす鏡としての役割もあるのかもしれません。近年では、例えば、石田徹也の作品がそうであったように…。そういえば、波多野香里さんと石田徹也は、ほぼ同世代のようです。



