沖元かおる個展「表と裏」(作為の無作為)に行ってきました
あいにくの雨の中、京橋のギャラリー檜で開催中の、沖元かおる個展「表と裏」(作為の無作為)に行ってきました。お天気のせいなのか、あるいは新型コロナウィルス第三波の襲来により、外出を控えている人が多いためなのか、いつもと比べると、街の人通りが極端に少ないように感じられました。沖元さんの個展は、6月に、根津のギャラリー美の舎に伺ってから、今年2回目です。

エレベータで4階へ、会場に入ると、最初に、色鮮やかで心地よさげな水彩の4作品が目に入ってきました。即興的でスピード感のある作品は、水彩画の技法の特徴が良く活かされているようです。ちなみにこれらの作品は、お台場の風景を描いたものなのだそうです。

この作品の横には、展覧会のコンセプトが書かれていました。
「表と裏」(作為の不作為)は、フレームのガラス板の裏からただ線を引く事から始まっている。
表を表層意識(理性)、裏を潜在意識に見立て、画面を構成している今回の作品は、平面の中身を表面から探る実験であり、この構成の効果が絵画としてどのように「見える」のか試してみた展示である。
さてさて、一体、何のことでしょうか?

沖元さんのお話によると、この作品が一連の「始まり」の作品なのだそうです。右半分は、フレーム表面の透明板の裏側から、アクリル絵の具でただ縦に線を引いてみただけ、フレームの中身は白い発泡スチロールの板のまま。一方、左側の半分は、以前に描いた油絵があったので、その上にただ黒い油絵具を塗ってみた、とのこと。これでも、作品になるんだ、というのが、沖元さんの発見だったのだそうです。
右側の世界と左側の世界は、ずいぶんと異なっています。片方は色とりどりの明るい世界、もう片方は黒一色の暗い世界。それを左右に組み合わせて、一つの作品として構成してみたら、作品として成立していた、というのです。
沖元さんは、これまでにも、いろいろな素材を使って作品を制作してきました。以前は、琉球ガラスのカレットを使った作品を拝見したことがあります。色鮮やかでキラキラしたガラスの破片です。一方、セメントをキャンバスに塗って、作品を構成されたこともあります。セメントはざらざらとして灰色一色です。素材としては、ずいぶん対照的。
技法としてずいぶんと幅が広いなあ、もしかすると、いろいろな素材を取り込むことに挑戦しているのかなあ、などと、その時はその程度のことと解釈していました。

こちらの作品も似たような構成とはいえ、印象はずいぶん異なっています。色数は少なめで、右側半分は白い花が檻の中に閉じ込められているようにも見えてしまいます。私はふと、先日逮捕されてしまった香港の若者たちのことを思い出してしまいました。彼らは、今ごろ、どうしているのでしょうか?
とはいえ、よく見ると白い花は、檻からはみ出ようとしているところのようです。左側半分も、真っ黒な画面とはいえ、表面に、かすかに何がしかの表情がある。何よりも、その黒い絵の具の下には、かつて間違いなく、別の絵があったはずなのです。
表と裏。表層意識と潜在意識。過去と未来。色とりどりな世界と、白黒の世界。知性と感性。昼と夜。善と悪。男と女。知らず知らず、いつの間にか、勝手に分類して、勝手に名前を付け、勝手に納得してしまって、それ以上は良く見ないし、それ以上は深く考えようともしない。ともすれば、私たちには、そんな傾向があるようです。
「人間はそんなに単純に割り切れるものではありませんよ。両方あって当たり前。少なくとも私はそうです。」という声が、どこからともなく聞こえてきたような気がしました。