椹木野衣「感性は感動しない-美術の見方、批評の作法」を読みました

椹木野衣「感性は感動しない-美術の見方、批評の作法」を読みました。

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たまたま時間が空いたので、ふらっと本屋に行って、特にあてもなく書棚を見ていたのですが、ふとこの本のタイトルが気になったので、2,3ページめくったところ、いきなり岡本太郎の次のような言葉が出て来たので、思わず買うことに決めてしまいました。つまり、この本との出会いは、たまたま偶然というわけです。

「岡本太郎は感性について次のように言っている。

感性をみがくという言葉はおかしいと思うんだ。
感性というのは、誰にでも、瞬間にわき起こるものだ。
感性だけ鋭くして、みがきたいと思ってもだめだね。
自分自身をいろいろな条件にぶっつけることによって、
はじめて自分全体に燃え上がり、
広がるものが感性だよ。
(『強く生きる言葉』イーストプレス24ぺージ)」

家に帰る途中の電車の中で、さらに読み進めたのですが、ふむふむなるほど、やっぱりそうか、と思うことが、あちらこちらに書かれていたので、思わず「良い本を買った」と思ったのでした。

さて、この「良い絵に会ってきました」というブログでは、美術館やギャラリーに出かけて行き、いろいろな絵を拝見しては、家に帰って、拝見した絵の感想を書く、ということを勝手に続けているのですが、自分としては絵の素人なので「批評」などというのは、とてもとても大変におこがましいと思っています。どちらかというと、頑張って作品を作り続けておられる作家の方たちに少しでも「応援」や「励まし」になれば、と思って始めたことですが、それさえも、押しつけがましいのではないかと、常々感じています。

ただ、絵を拝見させていただき、それを短いながらも文章にする、という作業を繰り返しているわけなので、いわゆる「批評」というものと、結果的には、やっていることは似ているかもしれません。それで、どの段階で言葉が出てくるものなのか?と、わが身を振り返ってみたところ、必ずしも美術館やギャラリーにいるときではない、というのは確かです。家に帰る途中の電車の中であったり、家に帰ってからも何も言葉が浮かばず、とりあえずパソコンに向かってみて、展覧会のタイトルだけでも書いておこうか、というときになって、ようやく言葉が浮かんで来り、あるいは一晩寝て、「あっ、もしかするとこういうことかもしれない」というふうに、何かに気付いてみたり、といったことの繰り返しなのです。

ところが、公募展の最後に行われる講評などをお聞きしていると、先生方は、つぎからつぎへと、絵に関する言葉を、その場で紡ぎ出しておられるように見える。

このような違いは、自分は絵に関係した教育を受けているわけでもないし、ましてや職業にしているわけでもないので、こういうことについては、極めて鈍い人間だからであろう。うすうすながら、そのようにして納得していたのですが、この本を読ませていただき、職業として批評をされている方でも、絵をみるときには渾然一体とした「かたまり」として見ていて言葉にしない、いざ文章を書く談になって、言葉として出力するものらしい、ということがわかっただけでも、大変な収穫でした。

比べること自体、大変おこがましいのですが、岡本太郎によれば、「誰でもがそれぞれの感性を持っている」ということのようなので、的外れなことも多いとは思いますが、なにとぞ大目にみていただきたいと思っています。